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| ◆◇◆平河総合戦略研究所メルマガ◆◇◆(2005年2月19日 創刊号NO 001号) 甦れ美しい日本 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 目次 1.松永太郎コーナー 日本のスピリチュアリティ ------------------------------------- 現在、日本(人)の抱えている不幸の一つは、戦後、一切の精神性にかかわるものを教育の場から、ひいては社会から排斥ないし抑圧しようとしたことによって、逆に、私たちのほとんどが、精神性や霊性という次元をどのように見たら、よいのか、ほとんどわからなくなっていることにある、と思われる。星占いやカルトが流行するゆえんである。 先に述べたように、先進各国では、いわゆる「心の健康」を考える場合、あるいは成人の精神的な発達というものを考える場合、この次元を視野におさめるようになってきている。わたしは、このあまり注目されていない現象が、じつはルネサンスに匹敵する出来事であると考えている。以下では、そのことを考えていきたい。そして今の日本における「スピリチュアリティ」のありかを考えていきたいと思っている。 精神性ないし霊性という次元が抑圧されてきたのは、実は戦後日本だけのことではない。 多くの人が気づかれると思うが、「西欧近代」そのものが、この次元を抑圧してきたのだった。すなわち約300年近く、世界、あるいは世界の指導的な各国は、精神性という次元を抑圧してきたのである。そのもっとも極端な例が、ソヴィエト連邦をはじめとする社会主義各国であった。モンゴルにおけるラマ僧の虐殺やチベット仏教の大規模な破壊を見ると、そのすさまじさがわかる。 そして多少とも「西欧近代」(における支配的な考え方)に対する抵抗が残っていた日本においても、敗戦後、完全にアメリカ伝来の「民主主義」なるものを純粋培養的に、あるいは観念的に取り入れた結果(戦前の日本は「軍国主義」で、戦後、それを悔い改めた結果、「民主主義」になったというのは、戦後最大の神話であるが)、先に述べたように、こうした次元を教育の場から、ひいては社会から、除去しようとつとめてきたのである(社会主義者、マルクス主義者たちがそれと結託したのは不思議ではない)。そして、今、私たちは、アメリカの大統領が事あるごとに神を引き合いに出すのを、何とも理解できない現象であるかのように見ている。 精神性という次元は、宗教ともちろん関係があるが、宗教そのものではない。非常に簡略化して述べるとすると、古来(ほぼ人間世界が始まって以来)、世界のあらゆるところで、人間は、 「人間とは、身体、心、魂、神という多次元的な存在である」という認識を持っていた。神という言葉も非常に問題が多いが、少なくとも身体、心、魂、Body, Mind, Spirit,あるいは、地、人、天、あるいは身・心・神という次元が、人間の世界を構成するとみなされてきたのである。精神性とは、この3つめの次元を指す。 この3つ目の次元を専門に取り扱ってきたのが、世界どこでも宗教であったというのが、精神性と宗教の関係である。そしてこの3つ目の次元を切り落としたのが、後でも述べるが、「西欧近代」なのである。 けれども宗教というのは、すこし、そういう本を読んでみるとすぐにわかるが、すくなくとも教義の面から見ると、果たしてこれを同じものとみなしていいのか、といっていいほどに違う。とくに仏教と西方キリスト教は違う。 かつて東方キリスト教の神父さんと話したとき、仏教の話になったが、世界は空( Emptiness)であるという、そんな虚無的な宗教をどうして信じられるのかと言われたので、これはダメだと思った。ダメというのはキリスト教がダメというのではない。そうではなく、この神父さんの「空」に対する認識は、実はヨーロッパに始めて仏教が訳され、紹介されたときの認識なのである。「空」というのは、なにもない(虚無)、ということではない。実は東方キリスト教は仏教に非常に近いのであるが。 すでに宗教というものを言葉だけで捕らえたときの危険性がわかると思われる。宗教というものを普遍的に捕らえようとすると、宗派的な抵抗に出会うのである。理性的な現代人を宗教から遠ざけてきたものの一つに、こうした宗派性がある。したがって、こうした話に入り込まずに、普遍的なものが個別に現れるものとして、精神性という言葉に注目するのである。私は、日本の文化的遺伝子のなかに、そうした普遍に通じる個別の優れた精神性があるということを実感する。それを少し考えていきたいと思っている。 ------------------------------------- 真の怒りを失うということは、その裏腹の誇り(英語に訳したプライド)を失うということである。中国人がよくこだわる面子といった類と日本人の誇りの違いは、面子はその個人の自己中心主義の域を脱していない、極めて矮小化されたものである。『俺の面子はどうなるのか?』など誠に下らないもので、日本人古来の誇りの類のものではない。怒るといえば、最近日本でよく見る怒りとは、ゴルフ場で粗相があってキャディを怒鳴り散らす、酒場でサーヴィスが悪いと怒り散す、一方で何かと被害者意識で責任を転嫁して開き直るといったものである。まさに弱いもの苛めの典型であり、人間としての品位の問題である。本来あるべき自分自身、自分の家族、自分の属する組織、自分の属する社会、自分の国家に対する、本当の誇りに基いた怒りではないのである。 日本国家を担うべきはずの政治家を見よ。中国や韓国に行っては、相手方首脳と一緒になって日本政府を誹謗して得点稼ぎをする。野党のみならず与党の売国奴の群れ。国会でわざわざ首相に靖国に行くのか行かないのか執拗に答弁を迫る野党。日本人としての誇りなどひとつも見受けられない。政治家よ、あの堺事件を思い出して貰いたい。フランス外交団の前で、土佐藩に咎はない事情にも拘わらず、当時の力関係でフランス側要求に屈し、犠牲者としてくじ引きで切腹することになったひとりの志士箕浦猪之吉が、見事な切腹を披露し、そのはらわたを掻き出し「フランス人共聴け。己(おれ)は汝等(うぬら)のためには死なぬ。皇国のために死ぬる。日本男子の切腹を好く見て置け」(森鴎外 堺事件) そういえば、あのシラク大統領がコルシカでのサッカー試合の際フランス国歌吹奏の際のブーイングに立腹(これは面子ではない国家の威信)席をたったことが、フランスでは共産党から右翼までシラクの取った態度を支持するのである。日本の北京駐在大使はあのサッカーゲームで何を抗議したのか?国家の名誉と威信はこれほど重要なものなのだということを、今こそ日本人は認識して欲しい。誇りと真の怒りを失った人間ほど醜いものはないということを。 ------------------------------------- 近頃の映画・テレビで時代劇に出てくる役者の顔、しかも若い俳優のかつら姿はどうも 役者・俳優を見ても、「日本人の顔」は変わってきているのだろう。しょうゆ顔だ、ソース顔だ、食品添加物ではあるまいし、日本人の顔は今や添加物まで成り下がっているのか。あの、品格を持った「サムライ」の顔を見ることは最早出来ないのか。思えば、明治維新から戦前までの日本人の顔は武士の風格が滲み出ていた。坂本竜馬の、遠くを見つめている、お馴染みのあの写真顔は、まさに時代を背負った武士の顔だ。(もっとも、竜馬は当時、梅毒の末期であの広い額は典型的な梅毒症状だったという話もある。暗殺されてよかったのだ。鼻の欠けた竜馬の写真は想像できない) 私はNHKの日曜の「のど自慢」を時々見る。それも客席を映す時の聴衆の表情が見たいからだ。屈託なく笑い転げる顔、顔、顔。そこにはまぎれもなく「日本の庶民」の姿がある。(私も含めて)そして、日本には、しょうゆでもない、ソースでもない、まだまだ「いい顔」がある、と確信する。 日本人の「いい顔」を失くしてはならない。誇りと矜持を持った、武士の顔の復権を今こそ望みたい。
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